同じ夢を見よう。

嵐さんのことを拙い文章で綴っていきます

おたくのプライド

本当はこのことはしばらく書きたくなかったんですけど、いろいろあったので書くことにしました。

 

アイドルの熱愛・結婚。

オタクをする上で正直避けては通れない道だ。

私が嵐にゆるーく片足浸かっていて、海外アーティストを応援していた時の話からしようと思う。


ひょんなことから欧米の女優や、歌手を好きになった私は某外国の情報誌を買っていた。そこでは毎月のようにキスだの破局だの、婚約だの婚約破棄だの、結婚だの離婚だの、日本の週刊誌では絶対にありえないような記事がたくさん並んでいる。

海外ではそれが普通だ。むしろファンの方から復縁して欲しいとかそういう感情が芽生えるくらい恋愛、熱愛に対してオープンだ。

 

だから日本でそういう話題で世間が賑やかになるたびに嫌な気持ちになっていた。別にいいじゃん、と。

なんで日本のメディアはそういう記事を、あたかも犯罪を犯したかのように書き立てるのか。でもそれって需要があるから供給されているわけで、その需要は日本国民全体が作り上げているもので、結局日本人がそういうのを良しとしない環境を作っているんじゃないか、なんて考えて、どうにもできない歯がゆさを感じたことを今でも鮮明に覚えている。

 

ただ海外と日本の違うところ。それは紛れもなくアイドルの存在であると思う。

idol=崇拝される人[物],アイドル 偶像;偶像神,邪神

アイドルは崇拝される人であり、偶像、ひいては邪神になってしまう。

話がそれるが偶像と邪神について私的見解を述べておきたい。

偶像崇拝という言葉は宗教を学ぶ上で重要となるものだ。例えばイスラム教では偶像崇拝は禁止されている。つまり唯一神アッラーを模した像を作る、絵を描くことが禁止されている。またその預言者であるムハンマドも同様だ。つまり偶像とは自分にとっての神を具現化したもの、ということになる。要は理想の具現化だ。

次に邪神。「邪」=正しくない。よこしま。そう、崇拝する人の心を狂わせてしまう存在という意味だ。ここで一つ言っておくが、これはけしてアイドルのマイナスな意味として言ってるわけではない。

そして宗教と絡めたからと言って、嵐を宗教的に崇め奉るのが良い、ということを言いたい訳では無いことを忘れないでほしい。

 

アイドル=理想(神)の具現化なのだとしたら、私たちにいつまでも夢を見せ続けてくれる存在である一方、自分の思い描くものと違うものだったら幻滅してしまう存在である。

ただ日本のアイドルは神ではない。私たちと同じ人間だ。そこはこれから話す話の大前提となるものであることを確認しておきたい。

 

私は嵐のオタクとしてのはっきりとした自我が芽生えて日が浅い。だから本格的に自担の熱愛を経験したことがないから、ここから先は私が肝に命じておきたいことになる。

 

既述のように、なんで芸能人に自由に恋愛させてあげれないの?というスタンスで前は過ごしていた私だから、熱愛が出た時のファンの反応に最初は嫌悪感しか抱けなかった。

たとえば嵐のファンクラブ会員数である約221万人すべての人に恋人や配偶者、好きな人がいない、または恋人が欲しいと言っていないのだとしたら、彼らに誰とも付き合うな、恋愛するなと言う権利があるのかもしれない。

ただそうでないのだとしたら、彼らから幸せをもらう我々が私生活で享受している幸せを彼らから奪ってしまうのは非常に罪深いことだと思う。

でもそれはただのエゴだし、偽善だし、綺麗事だ。それは否定しない。

 

逆に、熱愛は一度だけでいいとも思う。

これだけの人数のファンを抱える人として、ファンにバレても、悲しませてもこの人と一緒にいたい、という強い気持ちがある相手とだけ恋愛して欲しいと思う。熱愛報道が出て、じゃあ別れます。みたいな軽い気持ちで付き合ってファンをむやみやたらに傷つけないで欲しいとも思う。それくらいの覚悟があるなら仕方がない、と諦めがつくかもしれない。(でも相手がどうしても嫌な人だったらどうなるんだろうね?)

 

このふたつはどう考えても極論だし、到底無理なことを言っているのは百も承知だ。

 

私のオタクとしてのある意味バイブル的存在であるマンガ、カノジョは嘘を愛しすぎてるの中に出てきて以来、私の中で一個の信念となった言葉がある。

見られる仕事をしているのなら、彼女は見せているんですよ。

詳しい説明は省くが、たくさんの人に見られる立場にある人は自分の行動が見られていて、見せたい部分、見せたくない部分を考えながら私たちにいろんなものを見せてくれているのだということを伝えているのだと思う。

これはアイドルだけじゃなくて、俳優もアスリートにも通じることだ。

好きな人がした行動を邪推せずに受け取ることが、好きな人に対する礼儀なのかな、なんて思ったりもする。

 

だからこそ、彼らが見せようとしない部分を暴くメディアに対しての嫌悪感ははかりしれなくて、病んでしまうあまり、そういう行動をとる彼らに対して嫌悪感を抱いてしまうことがあるかもしれない。これこそ邪神である所以だと思う。

 

ただ自担には幸せになって欲しい、と思う気持ちがない人なんて1人もいないと思うから、それがこじれてしまっているのだと思う。

「神」としてのidol人である日本のアイドルの挾間でいろんな思いが混ざり合いからまり合い交錯してしまっている。

 

2015年夏。私はその時のことはあまりよく覚えていないというのが本音だ。友達から聞いていたがそんなにショックを受けることはなかった。それは単に私の中での自担の立ち位置が今と全然違かったからであろう。今2015年に戻ったら私がどういう態度をとるのか全くわからないし想像もしたくない。

ただ自分の好きな人の好きな人がいい人であればいいなあとぼんやり思うだけだ。

その一方、有名女優と結婚してくれと思う自分がいないわけではない。それはもしかしたら私も?と思ってしまう余地を無くしたいという思いから来ているのだろう。つまり、彼がアイドルをしていなきゃ出会わなかったような相手と。そしてそれは「神」としてのidol人である日本のアイドルとの妥協点なのだ。

何事にも妥協は必要でしょ?

少し切ない話をすると、理想が100%そのまま具現化されるなんてこと、現代においてほとんどないと思うな。

 

願はくは自担が他の人たちが享受している幸せを享受できますように。

願はくは自担の選んだ人が私じゃ敵わないと思えるほど素敵な人でありますように。

 

でももう少し私たちに夢を見させてください。

無条件にあなたたちが見せたい景色を信じてついていきます。